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「愛・地球博」マンスリーレポート4月編

カテゴリー: 主な活動

2005年5月6日
■活動団体/活動参加者
(旧)研究交流委員会
本文:原田伸介 前書き:酒井基喜
■開催場所
 
 
 
□4月編プロローグ□・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

ゴールデンウィークも終わりに近づき来場者数も4日300万人突破と報道された「愛・地球博」。今月のマンスリーレポートはJEDIS中部地域本部長の原田氏自らのレポート。

原田氏が考え、求める本物とは?従事者として、そしてひとりの観客として果たして会場内へ本物の声、本物の躍動感、本物の存在感を求めたとき、どんな印象となって感じることが出来たのか?そして結果としてそこに本物は見つけられたのか?

是非ご一読いただき、ご一考されるも良し、ご来場の際の指針にされるも良し、それぞれにご活用いただければ幸いである。

□執筆者プロフィール□・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

原田 伸介(はらた しんすけ 登録番号 970078 )

1963年 愛知県名古屋市生れ。

1999年 ITMA99PARISや上海テックスなど海外展示会をはじめ、東京モーターショウなど
  の各種企業展示ブースなどを総合プロデュース。

2000年 ドイツハノーバー博閉幕式で各種催事運営を担当。

2005年 愛・地球博では名古屋商工会議所出展事業等で運営ディレクターを担当中。

株式会社新東通信本社所属。 JEDIS中部地域本部長。

□本  文□・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

             「愛・地球博に本物を探す」

現在のさまざまな出来事を考えた時“モノからコトへ”と言う、伝えるべき内容のパラダイムが変化している中で、“事”を伝えるインタープリターの役割をあまりに機械に頼りすぎてはいないだろか。
      
「映像」、「ロボット」、「機械によるオートマチックな説明」。
なるほど、確かに歴史や未来を見事に語るすばらしい内容も多い、しかしインターフェースが「心を持たない物」である場合、その内容も同時に本来の輝きを失ってしまうのではないだろうか。たとえそれが「人間」と同じ事をたくみに模倣していたとしても。

「人は間違える、手際も悪い。質にばらつきがある。」
しかし、それゆえ伝える内容は「自分だけの個別の情報」となるはずである。
情報の価値とは本来そこにあるのではないだろうか、つまり自らが獲得し発見した物の違いにこそ本当の価値が生ずるのではないだろうか。

今回の博覧会の特徴として、「与えられた情報」が非常に多いと言う事を感じるのだが、それは当然完成度も高く、疑う余地も少ない信用できる情報かもしれない、しかしあまりにも予想の範囲であり、思わぬ裏切りも当然少ない。
来場者それぞれが「自ら考える、感じる事の楽しみ」を放棄してしまったのか、瞬間に驚き瞬間に忘却するばかりで、深い静かな驚きには目を向けない様にも感じる。

あまりにも、日常に氾濫したエンターテイメントに慣れてしまったせいかもしれない。
本来は、そんな人々に輝きを取り戻すために、博覧会が開催されたのであろうが、それが自らが、輝くことを恐れ、放棄しているようにも見える。
小さくまとまって、「突き抜けている」感じがしないことが少しさびしい。
それに加えて、プロの専門職の少なさにも驚く、つまり「考える事を与えられない素人の集まり」になっている事も大きな要因である。

これは博覧会ばかりではなく、社会全体がそのような傾向にあるかもしれないが、ボランティアガイド、警備、運営を任されている人々等は、その責任をすべてマニュアルに託し、自ら規則の中におぼれ、何のために自らの仕事が必要なのか考えながら業務を進める事が非常に少ないのではないか。
むしろ余分なことを考えることは、無駄なこと余分なことで非効率と声高に語る関係者ばかりが目立つ。

本来はもっと楽しい、役に立つ、すばらしい情報が隠れているのに、それを自分の口で語る機会も失われているのかもしれない。
管理統制された、与えられた情報を口にしている事が多く、まるで人型ロボットやモニターがしゃべっているようにも感じられる「そこには心がない。」

色々な状況がさまざまに変化し、常に成長しているイベントという媒体にあって、今回のように大規模になればなるほど、「人という感覚」はさまざまな理由により失われて行くのであろうか。

゛モノからコトへ“移行する過程で、その役割を「人が語る」という大切な事が忘れられようとしている感じがする。
「機械→人、情→理、完成度→期待度、ドライ→ウェット。」

かつて、博覧会は未来の夢、本物の輝きを見せる“未来の実験の場”でもあった。
エレベーター、歩く歩道、携帯電話…etc
新しい発見・発明がこの「場」に登場してきた。今回ははたして何が生まれてくるのか?
目玉の冷凍マンモスは、大阪の月の石に変わる呼び物ではあるが、はたして未来を語ってくれるのか。

そんな今回の博覧会で「本物」を探してみた。
長久手会場ばかりが目立ち来場者があまり行かない瀬戸会場にも本物があった。
瀬戸日本政府館の「一粒の種」という“詩の郡独”である。映像やロボットに頼らずともここまで出来るという、すばらしい例だと思う。

国内のプロの劇団より選りすぐりの若手劇団員を100名近くオーディションで集め、2チームで6ヶ月間毎日20回公演を行っている。
これは本当に見事な出来栄えで、なめてかかってはいけない。驚くほどよく鍛えてあるのである。
日本人が持つ「言葉の綺麗さ」「動きの機敏さ、力強さ」「しなやかさ」「潔さ」「色の美しさ」などを存分に思い出させてくれる。

さらに、さまざまな古(いにしえ)の人の技の中にもすばらしいものもあった。「全国の山車」が100近く集まった山車祭りで、それは見るものを圧倒する迫力であった。「博覧会だからこそ可能な」想像を凌ぐ光景であった。「本物」が持つ圧倒的な存在感があった。

私が手がけた、「21世紀のウォードの箱」もそのひとつである。
「地球を船で半周して、本物の生きた極地:北極の植物を会場に運んでくる」そして「その植物光合成が持つ新しいエネルギーの可能性を21世紀の夢に託す」というもので、今回参加最多のさまざまな外国館ですら、「イミテーション」が目立つ展示品の中にあって、「本物の輝き」を放っていた。

また、地球市民村にある、「国境なき医師団」の紹介ゾーンなどもまさに、現場の声、臨場感を上手に再現した、深く考えさせられるすばらしい展示になっている。

これらの、展示に共通しているものは、「完成品」を見せるのではない「過程」における、静かな深い驚き、成長し続ける可能性の表現であるような気がする。
古きときを経て代々受け継がれてきた研鑽した技、長い時間をかけて手練した演出、厳しい極地が織りなす自然の生命力とその可能性、現場を本物で再現した緊張感は、見る人が「その存在、経過してきた時間の重み」にふと気がついたとき、その瞬間感嘆の声を上げずにはいられない圧倒的な凄みがある、そしてその傍らで「心を持った語りべ」が裏側にある物語も見る人に話すのである。

「モノからコトへ」の表現は、切り取ったシーンをただ見せるだけでなく、その裏側にある長く見えない、無駄にも思える様な時の積み重ねをいかにわかりやすく表現するかが重要であり、なぜそれが必要なのか、なぜこれがここにあるのか、これが未来に何を残すのか、をそれぞれ見た人が考える機会を与えるのである。
そしてそれは、そのときだけに留まらず、未来に続いてく可能性を示さなければならないのである。

ヨーロッパの街並みは、アジアのような活気や驚きはないが、成熟した静けさがあるとどこかの作家が言っていた気がするが、日本の文化、文化事業もまさにその様な時を迎えているのではないだろうか。
 
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