リレートーク

ライブな授業

カテゴリー: リレートーク

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2004年3月1日
 
今から十数年も前の話だが、ハーバード大学のケネディスクール(行政大学院)で行われた集中講座に参加したことがある。参加者はすべて社会人で、軍隊 用の学生寮で共同生活をしながら、朝から夜までみっちり組まれたカリキュラムと二週間格闘する、というかなりハードなプログラムだった。
 テーマは『地域開発プランニング』。不動産会社の社長から大学院の教授に転身し、近くまた不動産ビジネスに戻るという主任教授をはじめ、実務の世界を熟知したハーバードの教授陣の指導を直接受けるという経験はとても新鮮なものだった。
 なにしろ講義のスタイルが想像とはまったく違っていた。いや、本当のことをいえば、ハーバードのやり方をぼくは想像することさえできなかった。スタディの進め方はこうだ。
 まずはじめに課題が与えられる。テーマは「荒廃が進むボストン近郊の実在地域の再生プランを立案せよ」というものだ。若手の教授に引率されて実際に現地を歩き、街の様子を肌で感じることからプログラムははじまる。続いて最低限理解しておくべきポイントのレクチャーを受け、計画立案のベースとなる基礎データを受け取って、いよいよ各自のプランニング作業となる。最後にはそれぞれが再生プランを発表し、全員で議論した後に講評を受ける。
 もちろんこのプロセス自体に特別変わったことはない。ぼくが驚いたのは、プランニング作業をはじめるときに主任教授の口から出た言葉だった。彼は「3つのことを忘れるな」と言った。

 第一に、『世の中には唯一の正解などない。地域計画も当然そうだ。たったひとつの隠れた答えを見つけ出そうとしてもそんなものははじめから存在しない。それより自分だけのコンセプトを組み立てることを考えろ。』
 第二に、『問題は、提案する論理が説得力をもつか否かであって、それがすべてだ。計画内容がいかに優れていても、聞く者が賛同できなければ実行に移されることはない。勝敗が決まるのはあくまでプレゼンテーションが終わったときだ。』
第三に、『渡した資料だけでは満足なプランは絶対につくれない。データが足りないはずだ。だがこれ以上こちらからは提供しない。聞いてきた者に聞かれたことだけ答える。どんな質問でもよい。あらゆるデータを用意して待っている。』
日本の教育しか知らないぼくにとって、これはショックだった。小学校から大学まで、情報は全員に無条件で一律平等に与えられ、覚えてきたただひとつの「正解」をテストやレポートに「複写」することしかしてこなかったのだから、びっくりしたのも当然だ。彼の科白はぼくの脳裏に強烈にインプットされた。

 観客(=生徒)がプログラムの進行に文字通り参画していること、提供される情報が一様でなく相手との応答によりフレキシブルに変わること、最終的にはプレゼンテーションすなわち「その場の空気」で勝敗が決まることなど、ハーバードの教育はまさに『対話型』だ。"イベント的"といってもいい。授業が「ライブメディア」であることを前提にプログラムが組み立てられている。そしてそのメリットが最大限に活かされている。
 これに比べると、情報を全員一律・一方的に送達することを基本とする日本の教育は明らかに『マスメディア型』だ。十年一日の如く同じテキストを朗読する一般教養がその典型だろう。大学でさえそうなのだ。
 "ビデオで見るのと変わらない"講義を受けて中身をひたすら覚え、ペーパーテストやレポートで優劣が判定される。戦略やプレゼンテーション能力が要求されることはない。問題となるのはひたすら「正確さ」だけだ。
    
 まぎれもなくライブメディアであるにもかかわらず『マスメディア型』だということは、要するにメディアの特性が活かされていないということだ。ぼくは教育についてはまったくの門外漢だが、日本の学校教育の構造的な問題のひとつはおそらくこれだろう。もしそうなら、学校教育もイベントやミュージアムと同じ悩みをもっているということになる。
 そしてイベントがそうであるように、空間メディアとしての意義を見出せないものは淘汰されるしかない、と考えるべきだろう。ITの方が合理的・効率的だと見做されるようではこれからはもたない。実際、教育効率を追求する予備校業界では、衛星放送やインターネットが積極的に取り入れられている。学校教育も「ひとが集う」ことの意味を問い直してみるべきだ。
 教育をイベントの視点で考えるべき時代になったのではないか? イベンターが教育の分野で貢献できることがあるのではないか?ぼくはいま密かにそう考えている。

(月刊「Event & Convention」2003年9月号より転載)