リレートーク

イスラムの体験

カテゴリー: リレートーク

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2004年6月1日
 
ぼくがはじめてイスラムの世界に触れたのは、今から二十年ほど前の、まだ雪の残るイスタンブールだった。当時学生の間で流行っていたバックパックを背負った貧乏旅行の最中に、ベニスの駅でなんとなく乗った列車がたまたまイスタンブール行きだったのだ。
 『オリエント・エクスプレス』とは名ばかりの、暖房も効かないボロ列車に揺られて48時間。ようやくたどり着いたイスタンブールの街は、それまで見てきたヨーロッパの街並みとはまったく違う、文字通りエキゾティックでエキサイティングな空間だった。一目で魅了されたし、ただ居るだけでワクワクした。
 よくイスタンブールは「アジアとヨーロッパの交差点」といわれるが、確かに二つの文明が混じりあうミステリアスな雰囲気に満ちていた。「西欧的でありながらアジア的でもあって、結局はそのどちらでもない」という独特の空間が、建築を学んでいた当時のぼくを惹きつけた。
   
 目にするものすべてが新鮮だったのだが、なによりおもしろかったのは、1日に数回、街中のスピーカーから流れるコーランを耳にしたときの人々の表情の変化だった。
 トルコは宗教的には穏健な国だから、市民の多くは我々と同じ恰好をしているし、コーランが流れはじめたからといっていきなりその場にひれ伏したりはしない。基本的にはなにも変わったことは起こらない。それでもやはり、コーランが聞こえた途端に、人々の表情や動きが微妙に変わるのだ。
 会話の呼吸、目の動き、歩くリズム………、コーランが流れている間だけどこか違う。別のことをしていても脳味噌が勝手にコーランに反応している、そんな感じだった。その変化があまりに自然でスムーズだったから、かえってコーランが暮らしのなかに溶け込んでいることがよくわかった。
 イスタンブールの経験で、ぼくのなかに「イスラム」という抽き出しができた。イスラムに対する自分なりの感性と言ってもいい。もちろんそれ以前にも学校で教わる程度の知識はもちあわせていた。だがイスタンブールに触れるまで、自らの感覚でイスラムと向き合うことはなかった。
 この旅は、ぼくにとってのイスラムを、新聞やテレビで見るだけの対象から実感を伴うものへと変えてくれた。つまりは、少しだけ"わかった"ような気がしたのだ。
 単なる旅行者の経験だから、もとより大したことはない。ノボせたことを言うな、と言われればそれまでだ。ただ少なくとも、ぼくの感覚を少しばかり広げてくれたことだけは確かだ。
  
「知る」と「わかる」は違う。「知っていること」と「わかったこと」は同じではない、と言い換えてもいい。
 必要な情報にアクセスさえできれば、誰でもとりあえず「知る」ことはできる。しかし、"あっ、わかった!"と感じるのは、自らの身体を通り抜ける実感を手に入れた瞬間だけだ。"腑に落ちる"という言葉がそれを見事に表している。
 ガイドブックを何冊読んでも見知らぬ街をリアルにイメージすることはできない。結局は行ってみるしかないのだが、それと同じで、マスメディアや電子メディアには「インフォメーション」はあっても「実感」はない。"腑に落ちる"ためには皮膚感覚を通した実感が要るが、メディアの多くにはそれがない。
 だが空間メディアは違う。体験を通して情報を伝える空間メディアは、まさに実感を得るためにある。むろんその代表がイベントだ。外からモノを「見る」のではなく、自分がなかに「居る」という感覚、五感のすべてを動員して全身で触れあう体感性、反応をダイレクトに感知できるインタラクティブ性……。イベントが備える数々の性能は、いずれも身体感覚での実感を獲得する原動力となるものばかりだ。
 イベントは全身に働きかける。すべては体で覚えてもらうためである。
  
  イベントは"わかる"メディアだ。情報伝播のボリュームではマスメディアの足元に及ばないし、情報の鮮度では電子メディアにかなわない。だがイベントは、他のメディアにはない特別な力をもっている。
 知識としてはすでに知っていることでも、「日ごろ見過ごしてきたこと」や「自分との関係において考えたことがなかったこと」を、「自分の感性をもって認識」したり「自分にとっての意味を発見」したりするためのスイッチが押される。自らの身体感覚で、実感をもって"わかる"から、「感動」がある。
 肌で、全身で感じ取った体験は忘れない。旅の記憶と同じだ。

(月刊『Event & Convention』 2003年12月号より転載)