サンタナの音色
■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2003年11月1日
自分だけの”音”をもつミュージシャンがいる。ワンフレーズ聴いただけで、誰もがすぐに「彼だ」とわかる。
たとえば、カルロス・サンタナ。サスティーンを効かせたあの”クィ?ン”という独特な音色を聴けば、奏者を特定するのは数秒あれば十分だ。熱狂的なファンでなくとも、彼の音を他のギタリストと間違うことはまずない。
ギターの故エリック・ゲイルやパット・メセニー、ベースのマーカス・ミラー、アルトサックスのデビッド・サンボーン、テナーサックスのマイケル・ブレッカー………。
「自分の音」を確立したミュージシャンは他にもまだいる。彼らの多くはスタジオミュージシャンとして頭角を現してきた。もちろんいまでも引っ張りだこだ。彼らがほんの何小節か音を重ねるだけで、そのサウンドに強烈な存在感が生まれる。
なぜ彼らだけが「自分の音」を獲得できたのかはわからない。もちろん楽器やアタッチメント(付属機器)のセッティングにも秘密があるだろうし、わゆる「手クセ」からくる独特の節回しの影響もあるだろう。だがおそらく、いくら同じ楽器を使ってフレーズを真似たとしても、他人に同じ音を出すことは不可能だ。
特筆すべきは、彼らが”音”だけで独自のアイデンティティを生み出していることである。シンボルマークやコーポレート・カラーのように、視覚表現を通してアイデンティティを表すことなら誰でも出来るが、目には見えない音色だけで「唯一無二の存在感」を伝えるのは並の才能では無理だ。おそらく頂点に昇りつめた一握りのミュージシャンだけに許されるご褒美のようなものなのだろう。
重要なことは、スタジオミュージシャンとしての彼らには『競争がない』という事実だ。何しろ唯一無二の存在で”誰にも似ていない”のだから、他のプレイヤーと比較されることがない。共演のギタリストを選ぶとき、エリック・ゲイルにしようかパット・メセニーにすべきか、と悩むことなどあり得ない。エリックの音が欲しければ彼に頼むほかないし、エリックの音がイメージに合いそうになければ間違っても彼に頼んではいけない。競争がない、とはそういうことだ。
”どんな風にも演奏できるしどんな音でも出せる”器用なスタジオミュージシャンならいくらもいる。技術的には完ぺきだから、要求されたサウンドイメージをたちどころに出せる。だが、伎倆の点では間違いなくエリートであっても、彼らは比較と競争から逃れることができない。常に同業者との競合関係に置かれる。期待されているのが「技術」であって「彼自身」ではないからだ。
結局、彼らは提供できる「メニュー」を増やし、「器用さ」を磨いて注文を待つしかない。これに対して「自分の音」をもつミュージシャンは自分自身をそのまま出せる。いや、出すしかない。ともに一流ミュージシャンであっても、両者がよって立つ基盤は180度逆なのだ。
翻ってイベントの世界を見渡してみると、「器用なスタジオミュージシャン」はたくさんいるけれど、残念ながら「サンタナ」は少ない。イベントを一目見ただけで、『あっ、彼だ!』とわからせる強烈な存在感を放つイベンターを、少なくともぼくは知らない。
もちろんイベントは音楽とは違ってつくり手個人の表現媒体ではないし、目的や条件によってプログラムのあり方が決まるから、イベンターのアイデンティティを表出する機能がはじめから脆弱であることは確かだ。だがそれにしても、イベントはまさしく「創造」されるものなのに、つくり手の”匂い”がほとんどしないというのはなんとも不思議だ。
結局のところ、イベンターは「自分だけの音」を獲得したいとの情熱と意欲が希薄なのかもしれない。よく言えば「フレキシブルで柔軟」、はっきり言えば「個性や主張が弱い」のではないか。
唯一無二の存在でなければ、常に競合を強いられるし、要求通りに「納める」器用さを売り物にするしかなくなる。だが、優れたミュージシャンが目に見えない”音”だけで独自の存在感を示せるのだから、イベントも”空気”でつくり手のアイデンティティを伝えることができるはずだ。
ぼくはいま、自分のイベントだけに漂う「空気」や「空間のテイスト」がつくれないか、と密かに考えている。一瞬身を浸しただけで「あっ、平野の空間だ」といわれるものをつくりたいし、クライアントに「平野のテイストが欲しい」といわれたい。
イベンターも表現者だという当たり前のことを忘れたくない。
(月刊『Event & Convention』2003年5月号より転載)