ラテンの感覚
■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2004年1月1日
これまで何度か海外で仕事をする機会があった。いずれも国際博の日本館の仕事だったから、プロジェクトのスパンはけっこう長く、相手国ともだいたい2年はつきあってきた。
当たり前だが、海外では日本と同じようには物事が進まない。日本なら電話1本で済むことで右往左往することがよくあるし、思いがけないトラブルが頻発する。日本の常識が通用しないうえに、相手の出方が予測できない。「もうダメだ」と腹を括ったこともあったけれど、不思議となんとかなってきた。
だから、無事に開幕を迎えたときの安堵と歓びはひとしおだ。何回経験しても、初日の来館者の目を輝かせた笑顔に触れるたびに、いつも特別な感激が押し寄せる。
イベントはいつも新鮮な発見や感動を与えてくれるけれど、海外ではそれがまた格別なのである。
外国で仕事をしていると、日本にいる時には当然だと思っていたことが、「もしかしたらそうではないかもしれない」と考えさせられることよくがある。
たとえばアテンダント。日本のイベント界では、アテンダントはしっかりと教育された折り目正しい立ち居振舞いをするべきだ、という常識がある。だから、凛々しく礼儀正しい立ち居を体で覚えるための訓練を徹底して行う。
教育は「颯爽とした歩き方」や「お辞儀の仕方」からマニキュアの色にまで及ぶ。いわゆる”パニオン立ち”もこのとき習う。博覧会の度に驚くのだが、どこにでもいる地味な女の子たちが、開幕のころにはモデルのようになっている。
もちろん持ち場の業務も繰り返し教育されるから、彼女たちは次第にプロ意識に目覚めていく。「自分たちがイベントの顔なのだ」「恥ずかしいことはできない」と決意する。だから、決められたマニュアルをできるだけ忠実に、そして完全にこなそうと努力する。その結果、誰がどのポジションに廻っても、機械のように正確に職務が遂行されるのである。
だが、たとえば、ラテンの国ではそうはいかない。通常、国際博に出展するときには日本と相手国の双方からアテンダントを採用するのだが、日本のシステムをそのまま現地に持ち込んでもうまくいくとは限らない。
ラテンの女の子たちから見れば、お辞儀の仕方が決められるなど”バッカみたい”な話だし、ツメの長さにまで口を挟まれる覚えはない。お辞儀などその時々の状況からひとりでに出てくるものであり、ツメをどうするかは紛れもなく個人に帰属する問題だ、と考える。
仕事中も、決められた通りの機械的な挨拶などしないかわりに、興に乗ってくるとカウンターに腰掛けたまま一人の客と延々としゃべったり、そのまま持ち場を離れて案内をはじめたりする。
もちろん、そうした態度は日本人をイライラさせる。「自分の職務を忘れるな! ルールを守れ! きちんとしろ!」と言いたくなる。だが、彼女たちは「私たちは人形じゃない。もてなすとはこういうことを言うのだ。あなたたちはロボットみたいだ」と譲らない。
『郷に入っては郷に従え』だから、この場合は現地の女の子たちに軍配を上げるべきなのだろう。なにしろ土俵は相手の国なのだ。
では、もしこれが日本で起きた出来事だったら? 今まで通りのやり方に無条件で従うべき? もし彼女たちのスタイルを日本に持ち込んだら? 「だらしない」と誰からも一蹴される?
いまは茶髪にピアスの日本代表選手に違和感がない時代だ。もしかしたら軍隊型没個性教育の方が時代遅れなのではないのか……。日本にいるときには感じたことのない問題意識だった。
実際、その後に日本で軍隊のように統制の取れたアテンダントの隊列行進を見たとき、何となく「気味が悪い」と思った。ゲートの前に等間隔で一直線に整列し、一糸乱れず頭を下げる姿は少々滑稽にも見えた。
どんな分野であれ、品質を保つためには管理が要る。バラツキや偶然が入り込むリスクを「管理」することで摘み取る。イベントだって同じだ。企画?計画?制作?運営のあらゆる段階を通じて「どれだけ合理的にマネージメントできるか」が成否を決める。
だがことによると、いまの日本のイベント界はそれが行き過ぎているのではないか。形式や様式の整然とした美しさ、システムの完成度、平等と公平の徹底など、スキのない安定した構造を求めるあまり、いわゆる”あそび”がなくなっているのではないか。
”あそび”を司るのはいうまでもなく人間である。安定したシステムを維持しながらも、生身の人間の曖昧さを許容する。きっとそれがこれからの課題なのだ……。
陽気におしゃべりする彼女たちの姿を見ながら、そんなことを考えた。
(月刊『Event & Convention』2003年7月号より転載)