無限の空間

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2004年2月1日
 
小さい頃から鏡が好きだった。もっとも、鏡に映る自分の姿にみとれていたわけではない。鏡がつくる不思議な視覚体験にいつもワクワクしていたのである。
 鏡でよく遊んだ。2枚の鏡を合わせるだけで立ち現れる無限の世界に目を奪われたし、より複雑で錯綜する空間をつくりだす母の三面鏡は、興奮を与えてくれる恰好のオモチャだった。
 ぼくの世代がみな夢中になったアメリカのTVシリーズ『スパイ大作戦』では、憧れだったエンジニアのバーニーが、鏡を駆使したトリックでよく敵を欺いた。鏡をあやつる彼の姿は、いつにも増して知的でカッコよく見えた。
 中学のとき大ヒットした『燃えよドラゴン』のクライマックスシーンでも、決定的な役割を果たしていたのは鏡だった。地下組織のフィクサーとブルース・リーが「鏡の部屋」で対決するのだが、互いの姿が無数に反射するなかで次第に空間認識を失なっていく。もしあれが草原や道場などのありきたりの舞台だったら、あの映画のインパクトは大きく落ちていたに違いない。
 
 鏡を使って現実の世界にはない特殊な映像効果を生み出すメカニズムは昔からいろいろとあった。だが、もっとも手軽にイリュージョンを楽しめるものといえば、やはり万華鏡をおいてほかにない。
 子どもの頃はじめて万華鏡を見たときの驚きはいまでもはっきりと覚えている。大した仕掛けもなさそうな単純な筒を覗いた途端、はじめて目にする奇怪な光景が視界いっぱいに広がった。その映像は、それまで目にしたいかなるものとも違っていた。
 しかも筒を廻すだけで景色が一変する。同じシーンは二度と現れない。偶然が支配する万華鏡の世界は、とてもスリリングな存在に見えた。 しかし、子どもではなくなるにつれて、万華鏡はいつしかぼくの視界から遠ざかっていった。
  
 ところが先日、はからずも30年ぶりに万華鏡と向き合う機会が訪れた。銀座のギャラリーで「世界の先駆的な万華鏡を一堂に会する」という展覧会を知人の一人が企画したからだ。
 正直に言うと、大して期待はしていなかった。外形がキレイにデザインされた、いわば〝デザイナーズ万華鏡〟が並んでいるだけだろう、と高を括っていた。
 だが実際に作品に接して、ぼくは完全に打ちのめされてしまった。目からウロコが落ちるとはまさしくこのことだ、と思った。
 なかでも一番驚いたのは、覗いた先に広がっていたのがまぎれもなく『空間』だったことだ。それまでのぼくの認識では、万華鏡の先にあるのは『映像』であって、あくまで平面上の出来事のはずだった。ところが最新の作品はまさしく3次元なのだ。
 たとえばある作品を覗くと、無限空間のなかにグルグルと千変万化する生き物のような3Dの球体が無数に連なって美しく発光している。しかもその空間のなかには、覗いているぼくの瞳が無限に反復投影されていて、ぼく自身が無数のぼくの眼に見つめられる。
 『外から覗いている自分自身の眼が無限空間の中にからめとられて増殖し、その視線によって自分自身が見つめられる』というなんとも現実離れした空間体験が、覗き穴の奥にひっそりと隠されているのだった。
 「肉体が従属する空間」と「鏡が統御する空間」。鏡の力が二つのリアルな空間を交錯させ、正常な空間感覚を麻痺させる。実に不思議な体験だった。
  
 万華鏡がこのような高度な視覚効果を獲得したのは、実はせいぜいここ数年のことらしい。鏡と光の微妙な角度を計算するために、場合によっては数学者の力を借りることもあるそうだ。
 19世紀初頭に生まれた万華鏡(カレイドスコープ)は、200年のときを経て次なるステージへと確実に歩を進めつつある。数人が一度に立体映像を見られる画期的なシステムも、すでに実験段階にあるらしい。万華鏡はいま、まさしく大きな変貌を遂げようとしている。
 もちろん、スコープ内部の鏡面空間に大勢の人間そのものを招き入れることはまだ無理だ。コストの問題だけでなく技術的な課題も多いだろう。だが万華鏡がいずれそれを達成することは間違いない。 『覗き穴』から『体感空間』へ。そうなれば文字通りの非日常空間が出現することになる。イベントにとって、もはや人ごとではない。
しばらくは万華鏡から目が離せそうにない。

(月刊『Event & Convention』2004年3月号より転載)