奇跡のサウンド

■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2004年7月1日
 
 『ザ・マスターピース』というTOKYO-FMの音楽番組に招かれた。タイトルの通り、毎週ひとりのゲストが自分にとってのマスターピースを1枚選び、それを聴きながらそのアルバムにまつわるおしゃべりをする、というコンセプトのプログラムだった。
 ぼくは音楽には少々ウルサイ方だから、番組のディレクターから話を聞きながら、「これは随分迷うだろうな」と覚悟した。悩みに悩んだあげく、結局は1枚に絞り切れずに思い余って阿弥陀で決める、という事態が脳裏をよぎった。
 だが驚くべきことに、なにを選ぼうかと考えはじめた途端に、まさしく一瞬で、しかも見事なほどクリアに、1枚だけが頭に浮かんできた。
 その1枚はストーンズでもツェッペリンでもなく、マイルスでもコルトレーンでもなかった。自分でもびっくりしたのだが、そのときぼくが無意識のうちに選んだのは、マービン・ゲイのアルバム『I Want You』だった。
 愛聴盤ならいくらもあるのになぜこれなのか。しばらく考えていたら腑に落ちた。やはりこれしかないのだ。

 最高傑作の呼び声が高い『Let’s Get it On』から3年経った1976年、マービン・ゲイは満を持してこの『I Want You』を送り出した。特筆すべきはレオン・ウェアのプロデュースによる独特なサウンドだ。
 このアルバムの”音”はどのアーティストのものとも違うし、誰の作品にも似ていない。それどころか、傑作を輩出したマービン自身も、プロデュースから作曲までのすべてを手掛けたレオン・ウェアでさえも、二度と再現することができなかった。文字通りOne & Onlyの”奇跡のサウンド”なのである。
 ぼくはこのアルバムとリアルタイムで出合った。高校生のときだった。はじめてこのサウンドに包まれたとき、音楽は人をこれほどまでに気持ち良くできるのか、と単純に驚いた。体中から無駄な力が抜けてフワ?っと軽くなり、気分がとても楽になったからだ。
 実はその頃、ぼくはジャズにドップリと浸かっていた。多くのジャズファンがそうしたように、ジャズ喫茶に入り浸り、大音量のなかでひとりインプロビゼーションの世界に没入した。そして観念的なフリージャズへ。当時のぼくにとって音楽とは”正座して対峙する”相手であり、頭で理解する対象だった。正直、疲れた。
 このアルバムと出合ったのはそんなときだ。救われたような気がした。そしてぼくの音楽観はこのとき大きく変わった。

 不思議なのは、なぜこの作品だけが”魔法の音”を生み出すことができたのか、ということだ。「イエスタデイ」のような不世出のメロディを武器にしているわけではないし、バックを務めているのも常連のスタジオミュージシャンに過ぎない。決してスタープレイヤーによるスーパープレイがつくり出した音ではないのだ。それどころか、作品制作の契約期限が迫り、レコード会社から催促されて大急ぎでつくられたらしい。だからおそらく、特別な仕掛けなどなにもなかった。
 要するに、取り立てて「秘密はこれだ」と言えるものが見当たらないのである。曲のクオリティも、演奏のレベルも、スタッフの技術も、いつもとなんら変わっていない。ただ、それらが総体としてつくり出す『空気』としかいいようのないもの、それだけが違う。そしてその”特別な空気”こそが、唯一無二のサウンドの決め手になっている。
 なぜそうなったのかはわからない。なにかが引き金になって、いつものスタジオにいつもと違う一回だけの特別な空気が生まれたとしか考えようがない。そしてその空気をそのまま音の中に封印できたことが奇跡を生んだのだろう。

 大切なことは、”魔法の音”は、曲、演奏、スタッフなど、サウンドを構成する物理的なファクターにのみ依存しているわけではない、という事実だ。これを言い換えれば、”うまい”からといって特別な空気を生み出せるとは限らない、ということになる。
 イベントだって同じだ。イベントのインパクトは必ずしも個々のファクターの優劣だけでは決まらない。全体から醸し出される空気感、それこそがイベントのイメージをつくっている。
 観客に感動を与えるのも、記憶として体に刻まれるのも、すべてはそのときその場に流れていた空気としかいいようのないものである。イベントの使命は “空気を”伝えたり、”空気で”伝えたりすることなのだから当然だ。ゆえにイベンターは誰も、自分だけの”唯一無二の空気”を手に入れようと悪戦苦闘する。
 どうすれば魔法の音を引き出せるのかはぼくにはわからない。きっとそれを探すことがイベンターの宿命なのだと思う。
 本番前に緊張がピークに達するとき、そしてすべてが終わってひとりリラックスするとき、ぼくは必ずこのアルバムを聴く。他のアルバムが取って代わることはない。
 「魔法の空気」はいつまでもその輝きを失わない。

(月刊『Event & Convention』 2004年1月号より転載)