時が流れる美術館
■執筆者 平野暁臣
■執筆日時 2004年9月1日
楽しい時間を過ごしているとき、人は時間を忘れる。ドキドキワクワクしているときはなおさらだ。楽しい時間は短かく、退屈な時間は長い。
もちろんイベントだって同じだ。イベントの出来の良し悪しは、観客が腕時計を見る回数でわかる。誰だって、目の前の光景に眼を奪われているときには時間のことなど気にしない。観客がチラチラ時計を見はじめたらもう潮時だ。
イベンターなら誰も“時が経つのを忘れる”ようなイベントをつくりたいと願っている。だからぼくたちは「演出」に悩む。
演出とは、メッセージやイメージをより効果的・魅力的に表現するために『時間の経過とともに状況を人為的に変化させる』ことをいう。同じ仕掛けの手品でも演出の巧拙で全く別物に見えるように、演出は内容そのものとともに訴求力を決めるとても重要なファクターだ。
ごく大雑把に言えば、演出が複雑になるほど状況の変化は大きく多彩になり、制御の精度と難度は高くなる。そして演出とは時間の関数だから、高度な演出をしたければ高度な時間管理をこなすしかない。
ゆえに、お客さんには時間を忘れてもらいたいけれど、イベンターが時間を忘れては仕事にならないのである。
☆ ☆ ☆
イベンターは、与えられた時間をひとつのストーリーに構成することが身に付いている。シナリオに沿って組み立てたシーンを効果的につなぐことで訴求力を向上させようとする。これは芝居や舞踊などのライブパフォーマンスに限らない。相手が展示であっても同じだ。
たとえば博覧会のパビリオンを考えるとき真っ先にすることは、館内に入ってから出るまでのストーリーラインの構築であり、それを強いインパクトで伝えるための表現手段と空間構成の選択である。そのとき無意識に考えているのは、できるだけダイナミックでドラマティックな空間にしたい、ということだ。
だから、この意味でいえば、展示を構成するのもライブステージをつくるのも、つくり手側のアプローチに大きな違いはない。目指しているのは、「時が経つのを忘れる」ような「ドキドキワクワクする」演出である。
ところが同じ展示でも、まったく逆の思想でつくられているものがある。美術館である。
美術館には演出がない。何も動かず、ただひたすら同じ状態がキープされるだけだ。演出をはじめから否定しているから、「時」も止まったまま動かない。
☆ ☆ ☆
ある美術館のプロデュースを依頼されたとき、最初に浮かんだイメージは「時が流れる美術館」というものだった。
従来の美術館の常識である「音も、光も、情景も、すべてが止まったまま動かない」状態から脱して、常に光がうつろい影がゆれながら、空間全体がおだやかに表情を変えていく。そんなダイナミックでドラマティックな美術館をつくりたいと思った。
そしてとうとう、美術館に演出を持ち込んでしまった。彫刻作品を展示するゾーンは、作品を出演者に見立てた劇場のような空間となった。バトンに吊られた演出照明とホリゾント壁に投影される映像が一体となって、次々と「シーン」が演出されていく。もちろん「音」もあるし、「出演者」には主役も脇役もいる。
第1楽章から第4楽章までの40分のスコアに沿って、空間のイメージが刻々と移り変わる。作品を光の色で染めるというタブーも犯した。もちろん糾弾を覚悟していた。ぼくなりに腹を括っていた。だが幸いなことに、結果は予想とは逆だった。
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美術館が「ある瞬間を切り取った一時停止の状態」を指向するのは、最良のコンディションをキープしようと考えているからだ。その作品を観賞するのにもっとも相応しい状況を選び、それを観客に提示する。
しかし考えてみれば、これは少しヘンだ。作家は展示室に陳列するために彫刻をつくるわけじゃない。太陽の動きや光線の変化を想像しながら、光のうつろいに反応して豊かな表情が立ち現れることをイメージしているに違いない。だからこそ、ひとつの彫刻が時間の変化とともに多彩な表情を見せるのだろう。もちろんいずれもその作品そのものであって、そこには優劣などないはずだ。
こうしたいわば“結論を伝える”いままでのやり方に違和感を感じるのは、ぼくがイベンターだからかもしれない。イベンターの仕事は「空間を媒介とした時間消費のプログラム」を組み立てることであって、結論を伝えることではないからだ。イベントの本質は「プロセスを楽しむ」ことなのだ。
ぼくはイベントとまったく同じ論理と手法で美術館をつくった。美術館でさえイベントの発想でつくれるのだから、イベントの方法論はおそらく想像をはるかに超える範囲に適用できるだろう。
イベンターはもっと外に出ていくべきだ。たまにアワェーで試合するのも悪くない。
(月刊「EVENT & CONVENTION」2004年3月号より転載)