『笑の大學』

■執筆者 平野 暁臣
■執筆日時 2005年8月1日
 

『笑の大學』

 喜劇をよく観る。
 理由は単純で、良質な芝居で笑った後は実に気分がいいからだ。さわやかな活力が湧いてくる。きっと笑いには脳味噌をポジティブにする作用があるのだろう。
 もっとも、喜劇なら何でもそうなるわけではない。低俗なドタバタやおふざけは退屈なだけだし、無理に笑わせようと力んだ芝居は興ざめだ。やはり「役者は一所懸命真面目に演じているのに、いつの間にかどんどん可笑しい状況にねじれていく」のが一番だ。
 生命線はプロットとシナリオが握っている。もちろん役者の技量や演出技術が大切なのは他の芝居と変わりはないが、ぼくは喜劇の品質は脚本の段階でほぼ決まると考えている。誰が演じるかと同じくらい、いやそれ以上にホンの出来が問題なのである。
 優れたコメディを書ける脚本家はそう多くない。いまトップを独走しているのが三谷幸喜だ。彼は、計算し尽くされた緻密な展開と無駄のない抑制の効いた台詞を駆使して、高品質な喜劇を次々と量産している。
 『オケピ!』『バッドニュース☆グッドタイミング』『彦馬がゆく』
『You Are The Top ~今宵の君』『その場しのぎの男たち』‥‥、最近観た舞台も例外なく素晴らしいものだった。

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 その三谷の芝居が映画になったというので、さっそく観に行くことにした。『笑の大學』というこの作品は、94年にラジオドラマとして登場して以来、日本はもとよりロシアでも舞台化された名作である。
 ときは昭和15年、笑いを憎む警視庁の検閲官と、笑いを守ろうとする喜劇芝居の座付作家が取調室で対峙する。笑いの弾圧を正義と信じる検閲官の無茶な要求が、皮肉にも台本をどんどん面白くしてしまう。そして‥‥。 登場人物は全編にわたってほぼ二人だけ。舞台もほとんど取調室の中だけだ。二人だけの密室劇。まさに三谷ワールドの真骨頂である。
 ところで、この主役のひとり、浅草の喜劇劇団の座付作家・椿一という役柄には実在のモデルがいる。昭和初期に一世を風靡した「日本の喜劇王」エノケンこと榎本健一の一座で座付作家として活躍した菊谷栄という人物である。
 天才劇作家・菊谷はエノケンをスターダムに押し上げた陰の立役者だった。わずか35歳の若さで戦死してしまうのだが、ほかならぬエノケン自身がその才能を高く買っていた。彼は、晩年に紫綬褒章を受章したとき、その勲章を「これは君のものだ」と菊谷の墓前に供えたらしい。
 三谷もまた、菊谷を心からリスペクトしていて、「自分にとって神のような人」と語っている。

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 興味深いのは、三谷がこうも言っていることだ。
『実は、いま菊谷のホンを読んでもさほど面白くはない。なぜなら喜劇はライブだから。時代が変わればなにを面白いと感じるかも当然変わる。ぼくの舞台だって、50年後、100年後にも面白いかと言われれば自信はない。
 でもそれでいい。ぼくは、自分と同時代を生きている人たちのために喜劇をつくっているのだから。喜劇とはそういうものだと思う』
 まさしくイベントと同じではないか。ぼくたちだって“後世に伝える”ためにイベントをつくっているわけじゃない。考えているのは目の前の参加者のことだけだ。後世の観客のためにつくられるイベントなど聞いたことがない。イベントにあるのはいつも“いま”だけだ。
 イベントは生ものなので、貯めておくことも取っておくこともできない。だから、どんなに成功したイベントであっても、過去のイベントをそのまま再現したところできっと面白くない。
 大阪万博でさえそうだろう。いま「月の石」を飾ったところでどうということはないし、外国人がたくさん居るからといって驚く人もいない。
 しかし、だからといって大阪万博が内容の薄いイベントだったわけではないし、ましてや意味がなかったということにはならない。むしろ逆で、あの時代を生きていた人々の欲望を上手くすくい上げた“その時限り”のイベントだったことで、より強力なインパクトを手にしたと考えるべきだ。“いま”しか考えていなかったからこそ、後世に名を残すイベントになったのである。

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 喜劇もイベントも、同じ時代を生きる人のためにある。
 絵画や文学のように、時代を超えて繰り返し感動を与え続けることができない代わりに、後では再現できない生々しい感激がある。冷凍や解凍ができず、輸送も保管もできない代わりに、そのときその場に居合わせた者だけが共有できる独特の“空気”がある。
 どれだけ“いま”を掴めるか、それをいかに“物語”のなかに織り込むか……、喜劇もイベントもまったく同じであって、ともに大切なのはプロットとシナリオだ。だから、喜劇の品質が脚本で決まるように、イベントの品質はプランニングで決まる。
 もちろん本番がはじまったら演者に任せるしかないし、役者の個性を活かす“遊び”の部分も必要だ。ライブゆえに思わぬ展開に進むこともあるだろう。この意味では台本にはある種の自由とルーズさが不可欠だ。
 しかし、だからこそ、しっかりとしたストラクチャーが必要なのだ。それが甘いと品質を担保できない。
 ライブコミュニケーションの宿命である。

(月刊 『Event & Convention』 2005.2月号より転載)